宮崎県延岡市出身。4歳で地元・東海(とうみ)スイミングクラブに入会し水泳を始める。久世由美子コーチ指導の下、人一倍の負けん気の強さと厳しい練習を重ね頭角を現す。日本選手権で実力を発揮しアテネ五輪出場の座をつかむ。その練習環境に注目が集まり「ビニールハウス生まれのヒーロー」と称される。アテネ五輪では400m自由形で40年振りの快挙となる決勝進出を決めるもメダルは獲得できず。この屈辱が、「五輪に出たい」という夢を「絶対、五輪メダリストになる」という目標に変える。そして2008年北京五輪で見事に200mバタフライで銅メダルを獲得。この活躍が認められて宮崎県民栄誉賞と延岡市民栄誉賞を受賞。2012年3度目となるロンドン五輪に競泳チームのキャプテンとして出場。200mバタフライ決勝。北京五輪で8個の金メダルを獲得した王者フェルプス、そして近年急激に力をつけてきたクローとの熾烈なデットヒート。「0.25秒差」、距離・数十センチ、文字通りタッチの差で銅メダルに。また400mメドレーリレー決勝。国の威信をかけたこのレースで日本競泳史上初となる銀メダルを獲得。レース終了後のインタビューで「康介さんを手ぶらで帰らせるわけにはいかない」とコメント。これが2012年新語・流行語大賞のトップテンに選出される。しかし、この輝かしい戦績の裏で様々な苦しい時期を経験。北京五輪直前の高速水着の出現や世界経済の急激な悪化で2009年スポンサーを失うなど現役続行に黄色信号が灯る。とった行動は競技を続けながらスポンサー探すこと。支援を要請する手紙を出した会社は約500社。費用のかかる海外遠征や高地トレーニングを断念し資金を切り詰めてトレーニング。世界の強豪と渡り合うには、あまりにも不利な状況でした。2010年その努力が実りコスモス薬品と契約。2012年、練習環境を国立スポーツ科学センターに移す。ナショナルチーム平井コーチに師事し「もう一度世界一を目指す」と現役続行を宣言。2014年3月セガサミーホールディングスと新たな所属契約を締結し、再び久世由美子コーチに指導を仰ぎ、4度目の五輪出場を目指す。
主な戦績 | |||
大会名称 | 競技種目 | Time | 戦績 |
2004年 アテネオリンピック |
400m自由形 | 3.48.96 | 8位 40年振り決勝進出 |
第11回モントリオール 世界選手権競技大会 |
200mバタフライ | 1.55.62 | 銀メダル |
2008年北京オリンピック | 200mバタフライ | 1.52.97 | 銅メダル 日本新・アジア新 |
第13回ローマ世界水泳選手権競技大会 | 200mバタフライ | 1.53.32 | 銅メダル |
2010年第11回パンパシ フィック選手権大会 |
200mバタフライ | 1.54.81 | 銅メダル |
800m自由形 | 7.51.87 | 銅メダル | |
2010年ワールドカップ東京大会 | 200mバタフライ | 1.50.64 | 金メダル 短水路日本新記録 |
2010年アジア大会 中国・広州 |
200mバタフライ | 1.54.02 | 金メダル |
200m自由形 | 1.47.73 | 銅メダル | |
2011年 ジャパンオープン |
100mバタフライ | 52.83 | 2位 |
200mバタフライ | 1.55.76 | 優勝 | |
2011年上海世界水泳選手権競技大会 | 200mバタフライ | 1.54.01 | 銀メダル |
2011年ワールドカップ東京大会 | 200m自由形 | 1.43.99 | 銀メダル |
200mバタフライ | 1.49.50 | 金メダル 短水路日本新記録 |
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2012年 ジャパンオープン |
100mバタフライ | 52.48 | 2位 |
200mバタフライ | 1.54.69 | 優勝 | |
2012年 ロンドンオリンピック |
200mバタフライ | 1.53.21 | 銅メダル |
400mメドレーリレー | 51.20 | 銀メダル |
PV
GILLEの「Try Again」のPVに出演
イベント
「松田大志 presents 自分超えチャレンジ」